巡礼者のかく語りき

自由気ままに書き綴る雑記帳

Welcome 2021!! 明けぬ夜は無い。

 

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 明けましておめでとうございます。

無事に年が明け、皆様にとってもどうか佳き一年になりますように。

 


 昨年は完全に新型ウイルスの奴に翻弄され、また様々な情報にも振り回された。
この一年の中で、何がこの先で起こるか分かりませんし、急激に良い方へに向かうとは思えませんが、少しでも良い方向へに向かって今までの当たり前を取り戻しつつ前向きになれる年になってほしいモノであります。


 当Blogですが、これまでと変わらずに、自分がドキドキしてワクワクしたモノについて楽しみつつ無理のない範囲で、自分が刺激と興奮した事の所感やら独自考察、もしくはアホな事を色々と書き殴っていく所存であります。

多種多様な楽曲、コンテンツ、作品に巡り逢えるのか今から楽しみな所ですな。


 年始の空いた時間だったり、畳のシワや天井のシミを数えるしか無いぐらいに暇な時にでもここの駄文でも読んで下さったら幸いでございます。

 
 雑になりましたが、以上で2021年の年始の挨拶と致します。

本年も当Blogを宜しくお願い致します!!!!!!!

 

 

 

2020年の暮れに寄せて。

 何だかんだで、今年も残り僅かとなった。

 


毎年思う事だが……一年が過ぎていくのは本当に早いもんだと。
色々な人や場所が言っているが、今年は異常すぎる一年だった。
世の中の流れが激流に呑まれるかの如く急激に変化してしまった。


歴史に残ってしまう様な感染症が蔓延し、未だ収束の芽すらも見えない有様。
様々な所で制限を設けられ、行きたい所にも行けず会いたい人にも会えなかったり、イベントやライブが開催されなくて、延期や中止の報を聞く方がスタンダードに入れ替わってしまった。チケットが当選したのに中止になったのは何度もあった。

けど、刻の流れは途切れる事無く、世の中の仕組みも新しい形が出来て粛々と流れている。おそらくこの現状は数年続くだろう。これから求められるのはそれに対応する能力だと思っている。

新しい形や流れが出来るのは喜ばしい事だが、やっぱり、今まで当たり前にあった事が何の問題なく戻って来る事を望んでいるんだ。

ネガティブな事ばかりだが、僅かながらもポジティブになれる縁とも出逢えた2020年。
そんなこの一年を漢字一文字で表すとこの字が一番しっくり来た。


その字とは『忍』。


耐え忍ぶという意味での『忍』という字だ。


 今まで当たり前にあった事が今は思う様に出来ない状況下にある。それは本当に厳しく辛いモノだ。何でもないようなことが幸せだったと謳った楽曲が昔あったがその通りだ。
無くなってその尊さと有難みを痛感させられた。発信する側の人達も耐え忍んで苦心してどうにかしようと動く事を諦めなかったから新しい形で届ける事が叶った。

本来なら、直に会って互いの想いを声にするのが一番良い。だが、この現状ではそいつはリスクが極大だ。概念での話になってしまうが、言葉と熱は交わせずとも想いと魂は届いていると信じて耐えるしかない。

だから、未来の刻で今までの当たり前が取り戻せたなら、一切の妥協をせずに思う存分声と情熱をぶつけたいものだ。


その日が訪れるまで、今はただ耐え忍ぶしかない。


 そして、『忍』の字を挙げたのはもう一つ理由があります。

忍の字を分解すると『刃』と『心』という字になる。これは見えないけれど人が必ず持っている『言葉』と『心』に当たる。

制限された生活を余儀なくされる中に於いて、いろいろ鬱積する事は少なくなかった。
そして、現代は思いの丈を手軽に気軽にSNSという不特定多数に発信出来るツールが普及している。

言葉は何も口から発せられるだけじゃない。何かに記して解き放った瞬間からそれも言葉となる。


直に顔を突き合わせた時、ある程度その刃を鈍らせた物言いをほとんどの人はする。


(しない、出来ないという人もいるが……)


 格闘ゲームでは、コントローラーのボタンを押せば簡単に相手を殴れる。
でも、現実の世界で何の恨みも無い人やヤバい奴に絡まれなければいきなり殴りかかれる人はまずいないし出来ない。

だが、相手の顔や素性が見えないSNSではそれが無く、場の空気や熱が感じづらく見えないからこそ攻撃的に執拗になってしまうのだ。噺家(はなしか)殺すにゃ刃物はいらぬという言葉があって、(本来の意味とは違うが)噺家を人に置き換えると現代の世相と合致する。そう、言葉で簡単に人は傷つけてしまえる。


その意識はなくても無自覚のうちに、自分が良いと思って発したモノが他者にとっては不快に捉われてしまう事はある。で、その逆も当然ある。
何を書くにしろ、相手在りきという意識と慮る心はなおざりにしてはいけない。

 

その事を改めて考えさせられ、強く意識させられた年でもありました。

 

 

 正直な話、今の世情は良いとは言えない厳しいモノ。
今年の初めはこうなるとは誰も想像出来なかったでしょう。

そんな中でも、新しい巡り逢いの縁はちゃんとあった。

 

今出来る事をきっちりやりつつ耐え忍んで過ごす。

 

そう願いつつ、残り僅かとなった2020年の刻を過ごそうと思う。

 

来年はいい年になる事を願い、また新しい巡り逢いの縁を期待したい。

 


 それでは、今年も1年間お付き合いいただきありがとうございました。
来年も宜しくお願い致します。良いお年を

 

 

 

 

 

RGR楽曲ライナーノーツ#10 Darling Darling(森嶋優花ソロ楽曲)

 どうも。RGR楽曲ライナーノーツシリーズのお時間です。


早いもので(あくまでも自分の感覚ですが…)今回で10回目になります。
Run Girls, Run!』はまだまだこれからのグループ。まだここに書いていない楽曲や、これから新しく出て巡り逢う楽曲についても書いていきたい所存でございます。


 で、今回もRGRの1stアルバム『Run Girls, World!』に収録されておる楽曲の事を書いていく。

 

 

 

 

  

 Darling Darling/森嶋優花

 

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www.youtube.com

 

 RGRのリーダー・森嶋優花さんによるソロ楽曲。


曲題に用いられている『Darling』(可愛い・最愛の人)からもう可愛らしさ全開フルスロットルであり、曲調もまたポップでキュートなテイストで、それに森嶋さんのロジック(理論)で導き出された可愛らしい歌声が最後のピースで彩られた可愛いという要素に全てのベクトルが全振りして向けられて突き抜けた王道なアイドルソング&ラブソング。

なおかつポップなテイストなのでライブ映えする要素は抜群に高い。
それはキャッチーな詞も影響しているのだろう。サビで用いられているシンプルな英文であったり単語を繰り返して観客がレスポンスしやすい構成になっている。

詞といえば、この楽曲にも林さんのソロ楽曲『りんごの木』に彼女の愛称が詞に組み込まれていたが、この楽曲にもそれは踏襲されて、森嶋さんの愛称である『もっちー』が組み込まれているのも大きな特色だろう。

ただ、多く直接的に登場してくる『りんごの木』とは違っていて、この楽曲で出て来るのはラスサビ部分でようやく出て来て『もちろん』という語に掛ける形で出て来る。この辺はラブソングという特性もあってなのか恋愛の駆け引き・焦らしを模してそういった表現にしたのかなと思わせる。

インタビュー記事にて、厚木さんはこの楽曲についてのインプレッションを
『これぞ!森嶋優花』って曲と語られていたがまさしくその通りの楽曲で、可愛さの権化、可愛らしさの過剰摂取。自分が書く楽曲所感でよく出て来る表現で恐縮ですが……


 森嶋優花にしか謳えないOne offの極致にある楽曲だと感じた。


 実を言うと、自分はこういったテイストの楽曲は聴き心地が良くない抵抗感というか、聴くのが苦手なテイストの系統だったりする……
あざとく、可愛く甘い方向に全振りして突き抜けた楽曲ではあるのだけれども、この楽曲への抵抗感は一切抱かずにすんなりと聴けて受け入れられたのである。

不器用に見せる器用さに、見て無い様できっちりと周りを見られる。
森嶋優花の上記に挙げたパーソナリティが、あざとく甘々のイメージで抱くマイナス方向のインプレッションではなくプラス方向のインプレッションに変えた。

森嶋さんへの贔屓目な評価も勿論あると思う。けど、それ以上に、森嶋さんのロジック(=可愛らしさの理論)と入念な準備が、この楽曲を単なる一方的に押し付ける強烈なエゴなモノではなく聴衆も巻き込んで楽しもうというモノに仕上げようと真摯に向き合ったからだと思えて来る。

勿論、彼女が一方的に可愛らしさを強調して置き去りにしていく表現でも問題はない。
折角のソロ楽曲なのだからもっとエゴイスティックになっても良いし、そっちの方がより響いて受けがいいかもしれない。


でも、森嶋さんはそっちの方向に舵は取らなかった。この楽曲を取り上げたインタビューにて彼女は『Darling Darling』についてこう語る。そこに彼女が貫きたかった表現への信念があり、この楽曲が単なるラブソングには留まらない『要』があったと思う。

 

 


レコーディングでは、ライブでランナーさんが
サイリウムとかを振って応援してくれてる姿を思い出しながら歌いました。

―リスアニ!WAB 待望の1stアルバム『Run Girls, World!』が完成!Run Girls, Run!ロングインタビューより引用

   

 
 


マイク前で一人でレコーディングしていてもランナーさんたちの姿が
思い浮かんできたり、ステージに立っている自分が思い浮かんだりして。
そういったことがつながって『Darling Darling』が完成しましたね。


―animateTimes 『Run Girls, Run!』1stアルバム『Run Girls, World!』への軌跡と現在地より引用
 

 

 彼女は、自分が受け手側にどう見られるか?どうやったら印象深く魅せられるかを入念に探って探り抜いて、徹底的に準備して物事に臨まれる人だと思っている。愉快な要素の振る舞いが目立つ人だとは思うが、自分の抱く印象は論理的にモノを考えていてロジックをきちんと表現の形で表せる表現者だと見ている。


森嶋優花にとっては受け手側を置き去りにしていく一方的な表現は有り得ない。
このインタビューからは双方向への想いの循環を重視する事が彼女の求める表現の形であり森嶋さんの貫きたい信念。


そこで、この楽曲のタイトル『Darling Darling』に焦点を当てて考えてみる。


 注:ここから更に暴論全開の解釈(当Blogでは毎度の事だが…)


 『Darling』の和訳は冒頭にも書いた通り、可愛い人や最愛の人という意味がある。
ラブソングというテイストな楽曲でもあるから、詞で紡がれている世界感は少女の恋愛模様を描写しているモノでそれをテーマとしているのは森嶋さんも言及している。


だが、こうも考えられないだろうか?


最愛の人=彼女が大切に想う存在=仲間たちやランナー達への情。即ち……恋愛感情のラブソングではなく、好意の方の親愛の情と感謝を示すラブソングでもあると。森嶋さんがインタビューで言及していた事と彼女のパーソナリティであると思える双方向への想いの循環とを照らし合わせてみると、自分はそちらの方(恋愛<親愛)の印象が勝っているのである。



 やっぱりOnly Only oneの キミだから

 ちゃんと伝えなくっちゃ I love you 

 勇気を出して 言う言葉なら一つ…

 もっちーろん I love you

 もっちーろん Yes! I love you

 

 ―森嶋優花 『Darling Darling』より引用

 


 『I love you』は恋人を『愛する』といった感情とは異なるニュアンスにもなるとも言われ
自分にとって大切な人だという意味でも使われる。『キミ』というのは林さんと厚木さん、更に受け取り側の人達=応援するランナーを称した喩えなのだともとれる。

前述でも触れたが、『もちろん』という語に森嶋さんの愛称である『もっちー』と掛ける事で彼女の想いを強調させているし、語呂とメロディとの兼ね合いも無理が無くて良い。それ故により響いてくる。それは、曲題や一部の詞にある同じ単語を繰り返す表現にしている事に繋がってもいるのだろう。


 そして、ここに繋がって彼女の伝えたい本気の想いがあった。



 やっぱりDarling Darling もっとこの気持ち

 素直に伝えたいよ I love you…

 ―森嶋優花 『Darling Darling』より引用

 


 この節は歌い出しのパートのフレーズ。
映画や小説等でクライマックスのシーンを冒頭で配置するかの様な…物語の結末はプロローグで暗示された制作者側の大胆な仕掛け。

誰に何を森嶋さんはソロ楽曲で伝えたかったかという想いの『要』がいきなり在った。
単なるキュートなラブソングという枠ではなく、大切に想う人に向けた広義的な親愛の情を謳った森嶋優花にしか謳えないラブソングなのだと思えてしまうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

RGR楽曲ライナーノーツ#9 りんごの木(林鼓子ソロ楽曲)

 どうも。RGR楽曲ライナーノーツシリーズのお時間です。

 


今回から数回(おそらく5回程)に渡って、『Run Girls, Run!』の1stアルバム
『Run Girls, World!』に収録された楽曲について書き殴っていこうと思う。


ライナーノーツとか書いておりますが、音楽知識がゼロの人間ですのでそこら辺の要素は一切触れていませんし、しょうもない妄想と暴論にて書き殴った駄文になっていますので……何卒、ご容赦の程を宜しくお願い致します。

 

 

 

 

 


  りんごの木/林鼓子

 

 

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www.youtube.com



 この1stアルバムのウリの一つは、メンバー個人によるソロ楽曲が収録された事。
この楽曲は、RGRのセンター・林鼓子さんのソロ楽曲である。

 

 『りんごの木』という曲題のみで捉えると、何ともファンシーで可愛らしい楽曲なのかというインプレッションを抱きそうであるが……いざ聴いていくと、そのインプレッションは見事にぶっ壊されるエネルギッシュで獰猛さがダダ洩れしている攻撃的な楽曲。

奇を衒わない正統派で爽快なハードロックチューンの曲調に、林さんの伸びやかで瑞々しく『我』の強い歌声が素晴らしい程に、引き寄せられるかの様な親和性が高い激熱な楽曲に仕上がっている。そして、ただ単に激熱なだけの楽曲ではなく、『静』から『動』への振り幅が大きな楽曲でもある。それ故なのか、この楽曲はRGR楽曲の中で最も時間が短い(2分53秒)モノとなっている。

短い時間ではあるものの、聴き終わって物足りないというインプレッションは抱かない。
それは、前述にある激熱さとある種の焦燥感の差がもたらす濃密な楽曲の世界観に浸り易い事が要因なのではと。そう感じてしまうのは歌う林さんの”生き様”が歌声に強く反映されているのだと思ってしまうのだ。


 林さんはこの楽曲を、『私のための歌。この1曲で”林鼓子”を表してる』と評した。
タイトルにあるりんごを漢字で書くと林檎。彼女の苗字の字である『林』の字。
また、りんごの木は果実を実らせて熟せば赤に染まる。赤という色はRGRに於ける彼女のイメージカラーだ。詞にある『熟した夢』はダイレクトにりんごの果実と彼女が抱く夢という2つの意味を持つ。


即ち、りんごの木とは林鼓子という一人の表現者の比喩。


そして、揺れる心情を凝縮して盛り込んだ構成になっている事から、大人になりたいと願いつつ上手くいかない現状を憂いながらも進む事を諦めない。そこに思春期特有の心模様があると林さんは語る。

人生の刻の中で、思春期の刻は短い期間(8~18歳ぐらいの時期とも云われる)のモノ。
現在(2020年)の林さんは思春期である18歳の刻を生きている。ソロ楽曲という事を織り込んで、作詞された只野菜摘氏は今の林さんがシンパシーをより抱く詞を紡いだのだと。

前述でも触れた楽曲の時間が短いという事も、人の刻の流れの中の一部である思春期の期間の短さを表現しているインプレッションなのかもしれない。


 
 木は、自然の事物のうちで最も豊富にして広範囲にわたる象徴を持つと云われてきた。
根が地下に張り、枝は天空に伸びる事から、中心軸であるという捉え方や生命力の象徴としても捉えられる。また、人生を木の成長と例える考え方もある。
この楽曲で紡がれる詞は中心軸と生命にクローズアップして、RGRのセンターを担う林さんという存在に照らし合わせている。サビの詞はその事が強烈に表れている。

 

 

 たかまる心拍数 はやまる上昇気流
 
 抱きしめても両手がとどかないよ

    ざわつく木漏れ陽が ブレそうな心 埋めつくした

    座標軸は ここだ りんごの木


 ―林鼓子『りんごの木』より引用

 

 

 たかまる(高まる)とはやまる(早まる)は心臓が刻む心拍数に繋がって、それは『鼓動』という語句にも変換出来て、ここの箇所の言葉遣いは見事な韻の踏み方。彼女の愛称であるはやまるにも掛かっているし、鼓動の『鼓』の字は彼女の名の一文字。このダブルミーニングは只野氏の見事な用兵の妙を感じさせられ膝を叩いて唸るしかなく、個人的な意見だが、この箇所がこの楽曲に於ける『要』だと思えてならない。

ここの箇所は『動』の要素のクライマックス。それを彼女は思いの丈を吠える様に謳っている様に自分は聴こえてしまう。座標軸は彼女自身が拠り所にしている譲れない魂の性だからなのだと。


『ここ』は林鼓子自身であるし、彼女が今立って踏みしめている大地だ。
RGRのセンター=ド真ん中に立つ事の意味でもあり、表現者としての高みも言い換えればセカイの中心=ド真ん中にいずれは立ってやるという彼女の夢と野望にも捉えられる。


悩んで葛藤している心情をネガティブな『静』の要素で、それを乗り越えた先に芽生えた新たな熱い鼓動と胸の熱さをサビへ向けて徐々に加速していく模様を『動』の要素で彩る。


このサビのパートで、林さんの清廉で伸びやかな歌声は”魂の絶唱の域へと昇華する。


それは、身についた技術や培った経験がその領域の扉を開いたカギになったのではなく、彼女の叩き上げの魂が限界領域への扉を開いた。この楽曲はロックテイストな楽曲。曲のジャンルという括りだけではなく彼女の貫きたい固い信念も汲んで『ロック』なのだと思い知らされた。


 そして、最後に林さんの滾る想いが爆ぜて解き放たれる。

 

 翻弄しないでよ 憧れさせただけで

    遠ざかってしまうなんてずるいよ

    転がる境界線から 掴む熟した夢

    座標軸はここ (心の真ん中)

    ここだよと刻んだ りんごの木


 ―林鼓子『りんごの木』より引用

 

 

 ラスサビであるここの箇所は『りんごの木』の詞の一番好きな箇所であり、この楽曲の『要』だと感じた箇所でもある。

どんなに荒れ果てた大地でもしっかりと根差し生きようとする執念にも感じられるし、何を成すか以前にどう在りたいかという偽りのない本能、届いて、聴いてもらいたいのではなく、届け、四の五の言わずに私の謳を聴け!!!と『我』の強さを謳う。この『我』の強さも彼女が持つパーソナリティの一つであると自分は感じている。

思い描いた理想と突き付けられた現実とのギャップに翻弄され、全力で駆けても思う様にいかない。彼女が手に握っている熟した夢の実は手から転がり落ちそうになるが何とか懸命に握って離すまいとしっかりと掴んで、ここにあるモノと想い(心の真ん中=心臓・魂)とここ(鼓子=彼女自身が存在する事)を世に刻む事を強く訴えかける。

その姿は不格好で格好悪く映るのかもしれない。だが、この楽曲は格好いいモノを魅せて謳う楽曲じゃない。泥臭くて生々しい執念を謳う楽曲だと自分は思ったのだ。

林さんは、『りんごの木』を彼女自身に寄り添った楽曲と言っていたが、それと同時に聴いた人が勇気づけられる曲でもあるし、皆の応援歌の様な楽曲にしていきたいと願った。

それは、この『りんごの木』が聴く者の魂を揺さぶる『アンセムであるという事だと自分は勝手に解釈させてもらった。

自分自身の魂や特定の誰かではなく、林鼓子という表現者が抱く本気の想いと偽りない本能の全てがこの楽曲に凝縮されて詰まっている。

 


故に、この楽曲は林鼓子にしか謳えない唯一無二・One offの極致にあるアンセムだと思えてならないのである。

 

 

 

 


 ここまで読んで下さってありがとうございます。


手前勝手で拙い駄文ですが、僅かでも響いてくれたのなら幸いです。
そして、この素晴らしい楽曲がもっと多くの人に知って好きになってもらえたら嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 

ただ真っ直ぐに、ただがむしゃらに ―『ガールズフィスト!!!!』12.5無観客配信ワンマンライブ所感

 12月5日。『ガールズフィスト!!!!』の配信ライブが開催されリアルタイムにて視聴致しました。

 

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 単独ライブは3月の配信ライブ以来だという。
8月に配信で5thライブの開催が決まっていたが、当日にメンバーの一人の発熱によって中止を余儀なくされてしまう。この日の為に、懸命に練習を重ね体調管理にも細心の注意を払っていたのは想像に難くないが、どうにもならないモノはあってどうしようもないのだ。

このご時世、耐える事や困難はより多く圧し掛かってくるモノ。やりきれない思いや悔しい思いを抱いたのだろうし、同時に『ガールズフィスト!!!!』を応援されるファンの皆様も歯痒さや無念さを感じながらもこれまで以上に彼女達を応援してきたと思う。

出ていくチャンスは普通の年よりも限られた中、出来得る限り動き続けて掴み取ったといってもいい8か月ぶりの単独ライブ開催決定の報。
このライブは、コロナ禍に入り何度か延期されたワンマンライブの振替公演という形式らしいが、んなこたぁどうでもいい。このバンドを単独で見られる機会が訪れた事は素直に嬉しいモノだ。


 現状、オンライン配信形式のライブがスタンダードになってしまった事は、昨年からは想像し難かった事。物事には必ずプラスの面とマイナスの面が存在する。

やっぱり、現地参戦して肌で感じる熱気と聴覚にダイレクトで響く音の圧は現地にて直に感じるモノには及ばない。それはパフォーマンスする演者サイドも直に見えない画面越しという境界の向こう側の観客に向けてパフォーマンスする事に苦心したと思う。

お互いに抱いている想いは同じ。越えられない境界がある事を痛感しながら、それでもライブを開催する事と観る事を選択するのは、音楽を通じて興奮と熱狂を求めるからなのだろう。

今はこの状況でどうにかするしかないのが突き付けられた現実。
形式なんざどうでもいい。開催できた事を感謝してガッツリと楽しもうとライブの開始を待つ事数刻……ライブの幕が上がる。

 

 

 

 

 

 全身全霊でただ楽しむだけ 

 

 

 オープニングアクトに持って来たのはオリジナル楽曲『自分自信』
この楽曲をオープニングアクトに持って来た彼女達の真意は分からないので、私見でしかないのだがこう思っている。

原作の登場人物は、心に傷を抱えた少女達がパンクロックバンドを結成して成長していくストーリーが展開されていく。言い換えてしまうと自分に自信が持てないとも捉えられる。

この楽曲は初めての企画盤CD『Stand Up!!!!』に収録されている。
言うなれば『ガールズフィスト!!!!』としての原初の楽曲でもある。自分自身に自信を持つ事、現状から変わりたいという想いを謳う楽曲。

そして、今の世情を例えた節があって訴え掛けたいモノがあり、この楽曲を待ちに待ったワンマンライブの初手に持って来たのでは?と思っている。


 理想の世界が遠い


 変だな こんなの望んでない
 

 ―ガールズフィスト!!!!『自分自信』より引用


 大袈裟な表現だが、普通にライブやイベントが開催されていた当たり前の状況が今は当たり前では無いのが現状。全てが完全に揃ったモノは詞にもある遠い理想の世界と称してもいいのだろう。

マイナスでネガティブな事だらけだが、プラスでポジティブな事もあったはず。

思う様に動く事が出来なかったからこそ気付けた事、出来た事があって得たモノがあった。このワンマンライブの機はそいつを魅せ付けられる場だと。


 全開の笑顔で楽しみながらドラミングを披露する内山さん。

 クールな佇まいでベースを指弾き、時には凛とした歌声を響かせる古川さん。


 ほんわかとした和む雰囲気を纏いながらも、パワフルなビートを刻む奥村さん。


 楽曲によって様々な表情と表現を魅せて聴かせる浅見さんのボーカル。

 


そんなにこのバンドのパフォーマンスを観れてない自分が言うのはおこがましいが……
二か月前に観た『GIRLS LIVE STREAM -2020 AUTUMN SP-』の時とは何かが違う熱が滾り、ダダ漏れしていたのが画面越しでも感じられたのだ。

オリジナルの楽曲から、童謡ロックアレンジ、名バンドのカバー等…開幕でしっかりと暖気したら徹底的に楽しんで突っ走るのが『ガールズフィスト!!!!』のライブの流儀なのだと。


 そして、良い感じに盛り上がった所に持って来た『Full of Lies』が堪らない。


ノスタルジックなメロディで沁み入る様に聴かせる方向性で、ライブの雰囲気に落差を作る。この楽曲がある事は『ガールズフィスト!!!!』にとって強みだと思っている。
ワンマンだったらやるだろうと予想していたが、惹かれる切っ掛けになったこの楽曲がまた観られたのは本当に嬉しかったんだ。

 

 

 

 

 

 新たな可能性と引き出し

 

 それはMC明けで、『孤独の月』を披露する前の事だ。ベースの古川さんの前にキーボード(勿論、楽器の方)がセッティングされ、おもむろにイントロを奏でる。

この展開は完全にやられたと唸るしかできなかった。

古川さんがピアノ経験者という情報は知ってはいたが、まさかそれをこの場で披露するとは思わなかったからだ。思わぬ意外性という奇襲をやって来るのがライブの醍醐味でもある。

この楽曲は幻想的なインプレッションが持ち味。キーボードから奏でられるサウンドがその雰囲気を更に助長させて新しい彩りを楽曲にもたらし、感銘で膝を叩きまくってしまう程に素晴らしいアレンジに酔いしれてしまった。


この奇襲は一曲だけじゃなかった。


次に披露した往年の名パンクロックバンド『THE BLUE HEARTS』のこれまた名曲である『TRAIN-TRAIN』のカバーでもやってきたのだ。

今度は古川さんではなく、ギター担当の奥村さんがキーボードを演奏した。
奥村さんもピアノ経験者。(ちなみに、ドラムも経験している)


コレ観た時、思わず声上げて叫んでしまったぜ。


『あんたも弾くんかいッ!!!!』とwww

 

『孤独の月』のアクト同様、意外性で攻めて来たがこちらは原曲を忠実に再現する形をとって来た。(前奏と間奏にピアノ演奏が入る)一応、後日調べたが『THE BLUE HEARTS』の楽曲カバーはワンマンライブで色々やって来たが、おそらくこの楽曲はワンマンライブでは初めて披露したと思う。(間違っていましたら御免なさい)


初めてライブで披露する楽曲で新しいチャレンジを敢行する大胆さと
偉大な名バンドの名曲へのリスペクトを感じた。


もし、コレを現地参戦して直に見てたら間違いなく頭抱えて膝から崩れてる。
まさにエモーショナルの暴力。圧巻で完敗だ……

 

 

 

 

 

 ボーカル・浅見春那の変幻自在の『貌』(かお)

 

 このライブで最も強烈なインプレッションを抱いたのが、ボーカル・浅見春奈だった。


彼女がライブで魅せた表情は本当に多彩で、驚いたと同時にその世界観に惹き込まれたと言ってもいい。


 コレに関しては多様な意見や持論があるでしょうから、これはあくまでも私見
ボーカリストには様々なタイプが存在している。技術で聴き惚れさせる者、技術云々より魂と情熱をぶつけて来る者、強引にバンドの奏でるサウンドが醸し出す雰囲気へ惹き込む者…etc

失礼な事なのは承知で言ってしまうが、浅見さんは技術で聴かせる系統ではない。
何故なら、彼女は『顔』で歌う系統のボーカリストだと感じたのだ。

つまりは、表情豊かで歌う事が本能的に備わった人なんだと。


見る目のある人から見たら、浅見さんの歌唱技術はまだ拙いモノなのかもしれない。でも、技術は後で詰め込むことが出来るし間に合うが、本能的なセンスはその人にしか無いモノで後から詰め込む事は不可能なモノ。

楽しい楽曲では楽しさ全開で歌い、激熱な楽曲ではエネルギッシュでパワフルな歌声を響かせたり、キュートな楽曲では可愛らしさと艶やかさを纏わせた表情だったりと本当に多彩な『貌』で歌われ、ライブが進むに連れてテンションがハイになったのか声の質はよりパワフルになり、表情の活きの良さ的な輝きが増していく。

テンションのキャパシティが大幅に超え、フラッシュオーバーして一種のトランス状態に踏み込める胆力。良い意味で無謀かつ向こう見ずなのが浅見春那の魂の強さなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 変わらない『今』を楽しんだもん勝ちという想い

 


 繰り返しになるが、自分は『ガールズフィスト!!!!』の事はまだ知らない事の方が多い。
なので……これから書く事は見当違いが多分にあるという事を予め記しておく。

ライブパフォーマンスもそうだが、MCに於いても彼女達は本当に楽しんでやっている。
今しかない瞬間を全力で楽しもうというのが『ガールズフィスト!!!!』というバンドのポリシーでありアイデンティティなのだろう。

ライブ中のメンバーは明るく元気で、コロナ禍であることを忘れさせてくれるような、最高の雰囲気を作ってくれた。


今を生きる者が越えられない困難と今を嘆くよりも、もっとみんなで楽しめ!


『ガールズフィスト!!!!』がこのライブで音楽に乗せて伝えたい本気の想いと魂が上記のモノだったのかもしれない。四人は反抗の志を持ってその拳を下す事無く掲げ続ける。


 ただ、世情は未だ厳しい状況にある。最近は感染者が激増しており、またイベントやライブの中止・延期の報が増えている。来年は更にライブを開催する事が難しい年になってしまうかもしれない。

それでも、ライブを止めない策を模索しているアーティストや、支える裏方の皆さんがいて、その想いに共感し協力するファンがいる。


エンタメの希望の火はまだ消えていない。


鬱積とした事が多かった年だが、楽しい発見や巡り逢いがあった。
『ガールズフィスト!!!!』に巡り逢いライブを観れた事だとか。


今はまだ難しい願いだが、来年は『ガールズフィスト!!!!』のライブに現地参戦がしたい。
彼女達の奏でるサウンドの奔流に身を委ねて、魂を燃え滾らせて拳を天高く掲げてはしゃぎたい。この配信ライブを観てその想いは強くなった。

 

 その日が早く戻って来る刻を信じて願って待ち望む。

 

 

 

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タマシイノコドウとココロノヒカリ

 どうも。あかとんぼ弐号でございます。


本稿は『Run Girls, Run! Advent Calendar 2020』の13日目の記事となります。

 

adventar.org

 

 ここまでに公開された記事はどれも素晴らしく情熱溢れたモノばかり。
三人の軌跡や、グループや個のチカラの魅力、ライブで魅せる輝き、参戦されたインプレッション、三人の現状での立ち位置…etc

繰り返しになりますが、どの記事も愛情溢れて興味深く拝読させていただきました。


この様な場を設けていただいたtkusanoさん、参加者の皆様ありがとうございます。


 RGRへの熱い想いがここまで12人のランナー諸氏によって綴られて
その想いが刻まれたバトンが、今、自分の手元に届きました。

とは言え、語彙力&文章力が壊滅しておる自分には重たすぎるバトン……

入れ込んだ所で、エモーショナルに満ち溢れた記事は書けないので、自分なりに彼女達に抱いている想いをなんとか形にしてこのバトンを繋げていきたいと思います。

 

 

 

 


 以前、自分はRGRの現在地について思う所を書き殴って記事にした。

 

akatonbo02.hatenablog.jp

 

 今回はその記事で書き切れなかった事を盛った完結編的な感じの記事。
予めのご注意になりますが、本稿は決して『Run Girls, Run!』を非難、あるいは貶す目的で書かれたモノではない事。強い感じのインプレッションだったり、上から目線的な物言いをしてしまう部分が出てきてしまうかもしれません。

Run Girls, Run!』に並らなぬ情熱を抱いて本気で応援される方にとっては、不快感に感じる記述が無いと言い切れないので、ここから先を読み進む覚悟が出来る方以外は
今の段階でブラウザバックしていただけますと幸いです。

 

 


 

  三年の刻を経た座標軸

 

 改めて書く事ではないが、今年は『Run Girls, Run!』が結成して三周年を迎えた年。

 

ランナー(RGRファンの愛称)の層も千差万別。様々な時期や切っ掛けで、知って惹かれて推していくに至っただろう。歌唱やダンスパフォーマンスが良い、三人の個性・パーソナリティとギャップが面白い。未知の可能性に心躍らせたり……



あと、顔面が良い。とにかく良い。クッソ良いんだよ。



……まぁ、それぞれにRGRの良い部分は挙げられる。で、ここからは私見と暴論の域だがおそらくは、ランナー諸氏が共通で抱いているモノがあると思う。


それは、三人のパフォーマンスだったりキャラクターや楽曲が良い割りに世間からの評価はそう高いものじゃなく、想像より多くには認められてないのではないかという事。


 何事も無く、順風満帆にキャリアを重ねられているグループなんていない。
RGRも当然そうだ。あくまでも個人的な見解だが、彼女達は何かと風当たりがより厳しい様にこれまで見てきて思ってしまう。巡って来る運(=チャンス)に恵まれなく、きっちり見てもらえないといった感じにも捉えられる。


今の時代、個人の意見は簡単に公の場に出す事が出来る。そして、それを見る事も。


自分が惹かれて応援している存在に対して、ネガティブなインプレッションを抱く声を見聞するのは気分がいいモノではないし、普段ロクに見なかったり言及しない層の時勢に追従しただけの好き勝手にほざく適当な声は単純に悔しいものだ。


そう言われてしまっているのがRGRの今いる座標軸(基準)なのだ……

 

 

 

 このセカイで生きる為に……滾るタマシイを示せ  


 挙げていくとキリがないので本稿では割愛するが、現在、声優によるグループは本当に多く存在している。作品在りきのグループは勿論、レーベルによるアーティストとしてのプロモーション戦略だったり、高名なクリエーターのプロデュースとか……更には、グループだけではなくソロで活動される人もそこに加わりこちらも多種多様に存在していて、所謂群雄割拠の様相であり、良い表現ではないが声優アーティストのバーゲンセール市場…ファンの奪い合いという戦乱の世。


もはや、歌って踊れるのは備えていて当たり前のスキル、高名なクリエーターによる楽曲提供だけではグループとしてのアイデンティティにならない。
意外性という未知の可能性がアイデンティティとなっていくのだろう。


当たり前の要素+意外性+αの付加価値を見せて、客の魂をガッと掴んで
『こいつらになら、金と時間を費やす価値がある』と認めさせる。
その闘い方が出来ないとあっさりと消える。今はそういう時勢の波の中にRGRはいる。
更に言ってしまえば、今の彼女達に突飛な武器はない。


周りは曲者揃いの猛者。確実に勝つ保障はないけれど絶対に負けない方法はある。


それは闘わない事。


たが……闘わない=駆ける事をやめるのは、彼女達にとって諦める=死ぬ事と同義だ。
挑まない、闘わない者のカレンダーに何時かという日はない。ただ日々を過ごしているだけじゃ本当に強いヤツには勝てない。彼女達が叶えたいのは勝ちたいという願いだ。


突飛な武器が無い。欲しいと願えば降って湧き出て授かる都合のいいモノではない。


なら、どうする。どうやって闘って生き残る?
無いのなら、持っている当たり前の武器を徹底的に鍛えて磨くしかない。

 

 走るために生まれてきた でもまだ たりない たりない


 ―Run Girls, Run!『ランガリング・シンガソング 』より引用


 

 正当に認められないのは非常にキツい。やっている事が全て肯定されて評価される優しい世界ではなく、努力が必ず報われる保証や認められない世界がこの世の理で、彼女達の目の前にある軌跡は荒れ放題で駆けるには険しすぎる獣道。


グループ名にRun(走る)と冠した様に、走る事が三人のアイデンティティ


思い描く理想はまだ遥か彼方。何もかもが全然足りなくて至らないモノだらけ。
でも、諦めたくないと、やってみなくちゃ分からないと魂を奮い立たせ考えて動く。

 

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 本当に勝ちたいのは誰だ?


 この程度だと蔑まれたまま終わるワケにはいかない。私達は挑戦者だ。


 三人の胸(魂)に在るタマシイが吠え、ココロのヒカリが燃え滾る。


 目醒めた野望と野生の翼を広げて時代の鼓動を刻む為に。


 闘う準備は出来ている。


 止まってなんかいられない!!!と。

 

 

 どんな時でも、参戦したイベントを全力全開で闘い、でも必ずしも上手くいかなかったり、特に今年は、時勢の波の影響で勝負を懸けようと意気込みながらもいろいろ諦めなきゃならない事もあって、悔しい思いは数え切れないほどしただろう。

二周年ライブの時に、厚木那奈美さんが『1stツアーが満員にできなくて悔しかった』と言った事。あれは、今もハッキリと俺の魂に楔となって撃ち込まれた言葉だ。


厚木さんの言、1stツアーに参戦されたランナー諸氏は痛感しているはずだと思う。
その事実はRGRの三人も痛感して思い知らされた『敗北』の記憶でもある。厚木さんの敗北宣言とも言えるこの言葉は、二周年ライブという晴れやかな記念の場でわざわざ触れなくても何の問題もない事。

でも、厚木さんはそれを言葉にした。林さんや森嶋さんも同じ想いだったのだろう。
言い訳や負け惜しみなんてない。ただただ悔しいと潔く自分たちの負けを認めた。


自分達の弱さを受け入れて、現状を変えようとする想いを抱いて走る事をやめなかったからこそ、いろいろと飛躍に繋がる機を掴めた。
動かなければ何も変わらない事は、彼女達三人が一番分かっている。

 


 見ている人はちゃんと見てくれるし、どこの誰かに見られてもいい様に入念な準備と修練を怠らなかった者にしか雄飛の機は訪れないし掴めない。挑んで、闘い、日頃から全力全開で妥協せずに貪欲に生きる者が一発を当てられる。

だが、それはすぐに訪れるとは限らないしその一発がデカいかどうか分からないという事。本当に成果が出ているか分からなくても、やり続けて走り続けなきゃならない。
妥協したり怠ると、武器は錆びつき見えない部分で差がついてしまう。


 だから、三人は走り続ける。この三人にしか魅せられないパフォーマンスを磨き上げて、言葉だけじゃ伝えられない熱く滾る本気の想いと魂をパフォーマンスに込めて。

 

 

 Road to ”BUDOKAN” ~三人の双眸が見据える約束の地

 

 

 『Run Girls, Run!』として、まだ何も成し遂げられていない。これは事実。

 


 でも、そこに望みと未知の可能性がある。

 

 

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 日本武道館という場に辿り着く事が彼女達の眸が見定めた約束の地。
彼女達だけではなく、今までもこれからも多くのミュージシャンやアーティストにとっても立ちたいと願う約束の地。そこに立つ事が成し遂げた一つの確固たる証になるのではないだろうか。

目標、到達点、そして…終焉の地。意味はその状況によって違って来るが
現在に於いても特別な意味を持つ『聖地』

近年では、RGRと同じ声優グループが武道館やアリーナ・ドームクラスの大規模会場で単独ライブを開催する事は特別な事ではなくなっているが、やっぱり自分が情熱を持って推している存在が武道館のステージを踏みしめる刻と機が来る事を信じて待ち望むものだと思うし、そうなればと願う。


 しかし、彼女達の夢と目標を聞いてこう思う人はいるだろう。


 無理だ。身の程を知れと上から目線な物言いや、何言っちゃってるのと嗤う声。

 

 でも、俺はその目で見て来た。絶対に無理だという嗤い声を黙らせた人達を。


 ある人は、絶対無理だと言われた東京ドーム単独公演と紅白出場を叶えた。

 またある人達は、嗤われながらも、懸命に闘い続けて、
 さいたまスーパーアリーナでの単独公演を最後の最後という終焉の刻で勝ち取った。


 この人達が共に貫き通したのは、言い続ける事と挑戦し闘い続ける事を諦めず止めなかった事だ。そして、彼女達の滾る本気の熱に巻き込まれて乗っかった多くの人達が背中を押していった。

限界を超えようと踏み込んで闘う姿を見せ続ける。
周りを巻き込むほどの強いチカラと本気の想いが成果に結びつくモノだと。
だから、RGRの三人も言い続けて欲しい。諦めなければいつかそれが叶う刻が来る刻を勝ち取れる事を。


 
 

 

 最後に

 

 

 結成三周年を迎え、これからどんな世界へ導いてくれるのか。
全力で駆ける彼女達を追いかけた先に見える景色はどんなモノなのか。


予想を見事に裏切り、期待に応えてくれる『Run Girls, Run!』にもっと驚かされたい。


そして、彼女達の変わろうとする本気の想いと覚悟に負けたくない。

今は逢いに向かう事が限られて難しい。
だが、逢えない刻は、逢いたいという気持ちを研ぎ澄まして強くする。

その機と刻が叶ったら、爆ぜる想いと魂をぶつける。
この熱を今以上に滾らせて自分の出来る範囲で追いかけ続ける。


 物語は終わりじゃない。ここから始まるんだ。

 RGRはそんなヤワじゃねぇし、しぶとくて諦めが悪い。

 行く軌跡を塞ごうとする枠や括りつけようとする鎖なんざぶっ壊して駆けろ。

 


この先の未来に何が起こるか勿論分からんが、先の展開を想像してみるだけでドキドキしてワクワクしてくる。未知の可能性と三種三様の魅力的な個のチカラは今よりもっと凄いモノを魅せ付けてくれるだろう。彼女達ならやってくれる。


 ただ、先行きが厳しいモノを突き付けられているのも現実。


入口もまだそんなに多く広いモノじゃないが……でも、逆の可能性だってあって可能性は高くないかもしれんがそいつに懸けて信じてみたい。

 

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 だから、いろいろな人に知ってもらいたい。
Run Girls, Run!』のパーソナリティや楽曲、三種三様の個性に触れてみてほしい。
このアドベントカレンダーに寄稿された記事が知って惹かれていく事の助けになる。


知ってもらえたら、きっと気付いてもらえるはず。
Run Girls, Run!』が面白くて魅力に溢れたグループである事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちじゃなきゃ駄目って曲が謳いたい~未来と今をツナグ終わらない『円と縁』の謳

 どうも。あかとんぼ弐号です。



本稿は『Wake Up, Girls! Advent Calendar 2020』12日目の担当記事になります。
一昨年、昨年に続いて、Wake Up, Girls! Advent Calendarへ寄稿致しました。今年もまた宜しくお願い致します。

 

 

adventar.org

 

 一昨年に書いたモノ

 

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 昨年に書いたモノ

 

 

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 『Wake Up, Girls!』関連の愛がある記事なら何でもOKという事が
『Wake Up, Girls! Advent Calendar 』のレギュレーション。

 今年も、持っている全部をまたぶつけるチャンスが与えられた気がした。
毎年、情熱滾る素晴らしい記事(俺の書いたモノは除外)ばかりだが、今年はその熱量が異様に違ってきていて、参加された方々のロジック&エモーションが溢れ出る素晴らしい記事揃いに慄くばかり……

語彙力&文章力のない自分が寄稿するのは甚だ場違い感満載であるが、自分に出来る限界まで踏み込んである二曲の話をこれから書き殴ってみようと思います。



その楽曲は『TUNAGO』と『Polaris』。


 

 これから書き殴る楽曲の解釈と考察については、あくまでも自分の主観によるモノ。
これが正しいというつもりは微塵もありません。

読まれる方の主観とは全く異なる可能性が大いにありますので、読まれる前にその点は予めご了承願います。

 

 

 

 

 

 私たちが架け橋となって たくさんのつながりができますようにと願い。

 

 

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www.youtube.com

 

 そして……刻を越え、ずっと先の何億光年も輝ける思い出の様にと七人は誓う。

 

 

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www.youtube.com



 約束の地で迎えた最期の刻で、手を差し伸べ肩を組み合って謳う七人の姿は
 どんな言の葉の賛辞をもって形容しても霞んでしまう程に綺麗だった。

 それは、燃え尽きる前に一瞬だけ爆ぜて燃え盛るモノではなく
 ずっと先の未来の刻へ燃え続ける為の希望の火のように。

 そして、そんな七人の傍らには、確かにもう七人の少女達の姿があった。

 

 血の繋がりよりも濃く固い縁で繋がった者達、全ての刻に意味を持たせるアンセム

 

 


 数多のWUG楽曲の中に於いて、彼女達七人を取り巻くあらゆる『縁』との繋がりに感謝の念とこの七人にしか謳う事が出来ないアンセムでありOnly oneの極致にある楽曲。
Only oneってなんぞや?と思われたら……島田真夢の劇中の台詞


『私たちじゃなきゃ駄目って曲が歌いたい』Only oneの極致だと思ってもらえればいい。


生命の謳である『Beyond the Bottom』や原初の楽曲にしてアンセムである
『タチアガレ!』もこのOnly oneの系譜に存在している楽曲だが、この二曲とはまた違うOnly oneの極致に存在する特殊で特別な楽曲が『TUNAGO』と『Polaris』だと自分は思っている。


 まぁ、Only oneだのアンセムだのと勝手に言っておるのは俺だけだが……


 『TUNAGO』はWUGに最も深い縁がある東北の地への想いが色濃く反映されている。
更にはそこだけには限らない望郷の念をテーマにしている楽曲。また、魂の拠り所や、巡り逢いと関わり合いの『縁』も故郷の一部である様にも捉えられ、季節の巡りを『円』という捉え方も出来る様に思える。

曲名がヘボン式ローマ字で7文字の『TSUNAGO』ではなく、訓令式ローマ字の6文字の『TUNAGO』となっているのは東北6県の『6』に因んでいる為であると
作詞された只野菜摘氏は言及している。

 

楽曲がリリースした2017年。この年はWUGにとって様々な繋がりのあった年でもある。
色々なその繋がりへの詳細な言及は本稿では省くが、アニメの新作『新章』へと至るのもその一つだ。但し、この楽曲とアニメサイドへの繋がりは全く無い。



 そして、『Polaris』。この楽曲の最大の特色が、詞をWUGメンバー七人が綴った事だ。

 

wakeupgirls3.jp


 この楽曲もメッセージ性の強い楽曲で、一方通行だけの想いだけじゃ意味の無い双方向へと想いを巡らせ行き来させる事。曲題のPolaris北極星とその近くで輝く北斗七星をWUGとファンとの関係性になぞらえ盛り込み、東北の地への想いや人の抱くネガティブな感情や性(さが)も詞に綴られているため、WUG楽曲の集大成と呼ぶに相応しい楽曲となった。


 楽曲のみで捉えた時、前述でも触れているが『TUNAGO』はアニメサイドのWUGとは全く繋がりの無い楽曲。
一方『Polaris』は『Wake Up, Girls! 新章』の挿入歌であり、後半の物語の核になる楽曲。更には、アニメ本編だけに留まらず、舞台二作目『青葉の軌跡』にも『Polaris』へ繋がる軌跡を匂わせる演出が織り込まれている。


これだけを見るとこの二曲の直接的な繋がりは濃いモノじゃない。
『TUNAGO』はアニメの楽曲ではなく、アーティスト・WUGの『貌』(かお)として謳った楽曲。


 でも、この二曲は濃い繋がりを持つ楽曲だと思っている。
繋げている要素は、前述にある東北の地への想いは勿論。縁への感謝の想いであると。
そして、巡り廻る刻の流れや魂、生命の繋がりにまでその想いは込められている。
WUGが見せた『貌』はそれぞれ違うが魂は失っていない。

彼女達は『Polaris』の一節にこんな言の葉を綴った。それがありとあらゆる繋がりを指し示す言の葉であると感じられるのだ。


その言の葉は『未来と今ツナグ』である。


これは二曲共通に出て来るフレーズ。今の瞬間の繋がりだけを謳うのではなく、未来の刻への想いと願いを込めた。いつかは終わってしまう事を七人は覚悟して、自らに諭す意味合いもあったのかもしれないと自分は勝手に思っている。


終わらせる事で凝縮された刻の輝きが尊いモノになる。

終わらせる事で新しい夢が生まれる。

七人はきっちり終わらせる事に意味があると信じて覚悟して決断した。


 Wake Up, Girls!の活動が終焉を迎えた今の刻。
でも、彼女達がその六年の軌跡で本気で繋いで来たモノに嘘は無い。
誰の替わりもきかないこの七人にしかできないパフォーマンスと絆があった。


『ふるさとがにぎわい広がっていく』と『TUNAGO』のサビの節にあり
『つながってみちびいて輝いて』の節にて『Polaris』は歌い終わる。私見の域ではあるのだけれど……これらの楽曲の系譜の根幹を成す要素であり、七人の夢と願いなのかもしれない。

『ふるさと』は東北を指す言葉なのは間違いない。だが、彼女達自身=WUGの事を指している様に自分はここ最近思えて来ている。更に言うと彼女達の軌跡にはこの『ふるさと』を守り、盛り立てようとする闘いの軌跡でもあったと思えるのだ。

 『TUNAGO』のサビの振付を皆で一緒に踊ろうと、4thツアーが開幕する前に呼びかけた。その呼びかけに応えてツアーを経ていく毎にその人数は増していって、更にはサビの一節を皆が合唱する事態にまで昇華した。

 楽曲というモノは成長するモノ。単純に歌う者の生き様だったり技量や経験でそれを成す事もあるが、観客を巻き込んで成長していくケースもある。『Polaris』も『TUNAGO』と同系譜の楽曲と評したのはもう一つの理由は、この楽曲も同じ経緯でもって成長を遂げた繋がりの楽曲だという事。特に、『Polaris』の場合それが顕著だ。


 最期となった『Wake Up, Girls! FINAL TOUR - HOME -』その全ての公演で謳われただけではなく、詞を紡ぐ過程をあの七人(真夢達)の魂を憑依させて、朗読劇という形式でこの楽曲の物語に更なる彩りと魂を込めた。間奏で七人は客席側ではなくそれぞれが向かい合って『円』となる。その円舞の中に七人の傍らに常に寄り添った真夢達の魂も円に加わっているのだろう。

最も特徴的なのは、ラスサビにてメンバー七人が横一直線に並んで肩を組んでシンガロングする所で観客も一緒に肩を組んで歌う所だろう。この暗黙的な流れも、ファイナルツアーを経ていく毎に定着し、それに伴う形として落ちサビを謳う吉岡茉祐さんのパートの所で、彼女のイメージカラーである赤にブレードの光を変えていく行為も定着していった。


相応しい表現ではないのは承知だが、個人的にこれは言い続けていく。


純白で輝く心の光が、吉岡茉祐”魂の絶唱で血を流したような赤の光に染まっていく。
それは、『Polaris』という楽曲が真に生命が宿った刻。

たら~ればの話だが、ステージを囲む様な座席の配置になっていれば……肩を組んだ繋がりが円になる。これも生命の繋がりと称していいと思えてしまう。

『円』と『縁』は切れなければ終わる事のないワルツの様なモノ。
巡り逢い、惹かれて、繋がる。バラバラで雑多な輝きの個を一括りの円と縁に繋げた。
それは客席にいた人達も同じ。だから、いろんなモノを導いて繋がって、輝かせたのだと。

 

 …まぁ、ここまで散々書き殴っておいてアレだけれども、ライブ<楽曲の物語・世界観の方向性で書いていこうとしたが、書き殴っていくうちに熱を帯びていってしまい結局の所はベクトルが完全に入れ替わった形になってしまったが……

ただ、ライブという特殊で特別な刻と場があって、想いと魂を共有して繋がろうと七人はその手を差し出し、ワグナー諸氏は、その差し出された手を払い除けるのではなく繋がろうと応えた偽り無い真実は何よりも尊いモノだと思えてならない。

 

 そして、その『ふるさと』=WUGへ導かれる広がりは終焉の刻を過ぎてもなお、新しい広がりを続けてこんな声をよく耳にする。

  

 『解散しちゃったけど、今更ながらWUGにハマった』

 『解散後、初めてWUGを観た』…etc



 続いていようが、終わってしまっていようが、良いモノは良いんだと声をあげて吠える。
それは異論を挟めるモノじゃない。でも、負い目や申し訳なさを感じるだろう、中には一部の心無いアホがほざく『今更知っても遅い』とか『いい時を知らない奴』なんて戯言なんざ聞く耳持たなくていい。そう、我慢せずに『好き』という思いの丈を吐き出せばいい。

散って枯れて、記憶から忘れ去られても、僅かな切っ掛けと巡る季節の刻を経て再び芽吹いてやがて花を咲かせ新たに円を形作り縁を繋ぐ。

 

 悩むときがある 答え見つけ出す

    紡いできた時間があるから

    包み込む力にできる


 ―Wake Up, Girls!『TUNAGO』より引用
 
 

アンフェアの理で満ちた世の中だが、あらゆるモノが絶対に逃れる事が出来ないフェアな理が存在している。


それは、刻(季節)の巡りは平等に存在している事だ。


WUGメンバーではなく、新たな軌跡を一人の声優・表現者として日々を生きているあの七人。そして、WUGが存在していない今を生きる我々。変わった事はあるけども、季節の巡りは淡々と何事も無かったかのように変わらずに流れている。


永遠不変なモノはなく全てのものは移り変わって、あらゆるものは思い通りにならない。


けど、七人が残したあらゆるモノは『アーカイブ』として今も尚在り続けている。


それはきっと、これから未来の刻で新たに知り、惹かれていく人は増えていくのだろう。

 
楽曲からか、ライブ映像なのか、人に薦められたか、七人の誰かが出演している作品や番組だったりを観てという分かり易い要素からか。また、何か見えないモノに引き寄せられるオカルトチックな要素なのか……

何の要素が切っ掛けになってWUGという『円』の中へ導かれて辿り着いたのかは人それぞれ。人が巡り出逢える『縁』は限られたモノだと思う。それに繋がれるという事は奇跡でもあり、当たり前の事じゃない。それは声高らかに吠えて誇っていい。


踏み込んだ先は、アウェーじゃない。それぞれの『ふるさと』=『HOME』。


どこから始まろうと遅いなんて事はない。いつだっていい。WUGはまだ間に合うのだから。


 

 これまでのワグナーとの繋がりが広がったものがあったからこそ
『点と点が結んだ場所が繋がって輝く一つの絵になる』と七人は謳った。

WUGの何かに触れて感じたそのままの想いがその人にしか表現できない『絵』となる。
それは『絵』という言葉に拘らずどんなカタチでもいい。解き放ってみて下さい。
難しい事ではあるけど、それが物語が続いていって未来の刻で新しく知ってもらえる事に繋がっていくのだと。

自分も完全に書きたい事が尽き果てるまでWUGについて書く事はやめない。

これまでBlogに書いて来た記事は色々ある。作品や楽曲の所感や考察。
参戦したWUGライブのレポ。メンバーの魅力について書き殴ったモノ……etc

現に今ここに書き殴った楽曲の独自考察は、過去に記事として挙げたヤツだ。

別の角度や今の刻で新しく感じた要素に焦点を当てて、再考して導き出されたモノがあった。一つの結論に捉われず、様々な視点と感性で向かい合ってまた考えるのは本当に大事で面白いものでそれは作品に深みが広がっていく。これに気付かせてくれたのもWUG。

この駄文Blogに220記事以上もWUGに関する記事を書き殴っておいてまだ尽きないのかと辟易されるでしょうが……(苦笑)終わった今だからこそ動いて伝え続けるべきだと勝手ながら思うのです。まだまだ彼女達が世に遺したものについて語り継ぎたい。
様々な視点で触れて…ドキドキして、ワクワクしたい。


 ただの自己満足とエゴなのは承知の上だ。終わったモノに未だに縋っている見苦しいヤツだと嗤いたきゃ嗤えばいい。嗤っているだけで何もしてないお前らの為に書いてるワケじゃねぇ。書きたいから書いておるだけだ。

一つの作品でここまで書き殴ったのは『Wake Up, Girls!』が初めてだ。
そこまで書く事へのモチベーションを突き動かされたのは、WUGが人の何かを変えて実際に動かせる程の力を持つ作品だからなのだろう。それは今も続くモノだ。

それを発信して証明したい。あの七人が残してくれたモノ、自分の中の色々なモノを繋げてくれた対象への感謝を叫び続けたい。それが今なお続く俺の第二章の闘いなのだ。


少しでも…この小さな場所から一人でも多くの方に『Wake Up, Girls!』を知って欲しい。
そんな一心で執っている行動で円と縁が広がってくれるのならこんなに嬉しい事はない。

 

 

 

 あとがき


 
 今年の記事も、何とか無事に書き終える事が出来ました。

(内容の出来については知らん。ボロクソに叩かれる未来しか見えないwww)

今年も、前の二回同様にLIVE会場で聴いたWUG楽曲へのインプレッションを書き殴ろうか?あるいは、五年前のこの日に開催された
WUGフェス2015『Wake Up, Girls!Festa. 2015 Beyond the Bottom Extend.』に思いを耽る的な記事を書き殴ろうかと考えておりました。


(12/12に寄稿エントリーした理由はその為だったりしている……)


 ただ、毎回同じテイストの記事ばかりになってしまう事と、冬の幕張に関しては一昨年のAdvent Calendarの中に書いてもいるし、色々と考えた末にそれが本当に今の自分が書きたいモノではない答に辿り着き、今のWUG界隈の状況を思わせる様な二つの楽曲『TUNAGO』と『Polaris』の新しい解釈を形にして今回はそれを世に解き放ちたいと思い筆を執らせていただきました。


 ロジックやエモーションの欠片も無い、ただただ熱苦しく見苦しい駄文ではありますが……最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。