巡礼者のかく語りき

自由気ままに書き綴る雑記帳

『いろいろ詰め込んでみました!』を観た所感。

 9月7日、北沢タウンホールで行われたイベント『いろいろ詰め込んでみました!』に参戦。

 

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イベントの開催が決まって発表された時から観たいと思わされ、チケットが発売されたらすぐさま購入させてもらった。いろいろ詰め込んだと題している様に、朗読劇、トークコーナー、ライブパートと……単純にライブのみで感じられるエモーショナルなモノとはまた違うモノが感じられるだろうという根拠の無い確信を抱いたものである。

中々機が俺の中ではこれまで合わなかったもので舞台作品を観に赴いたのは昨年の丁度この時期に観に行ったナナシノ()さんの『希薄』以来だ。舞台劇や朗読という演目は場面の情景が視覚情報に多く在るモノじゃない。一つしかない舞台上という限られた領域で情景や人物の印象を観客の心象に刻み込む演出が必要となる。それ故、映像作品以上に舞台演目がもたらす観劇側の想像力をかき立てさせる要素は大きなモノがある様にも思える。

本当、久しぶりに舞台演目を観劇する機会が非常に楽しみだったもので、昨日は心躍りつつ会場へと向かったものである。で……新鮮なインプレッションとエモーショナルは素晴らしいモノでその感覚は観終わって時間がたったこの瞬間も褪せる事無く俺の中に刻まれ残っている。そんな『いろいろ詰め込んでみました!』(7日夜公演)の所感をこれから思い出せる限りの範囲で書いていこうと思う。

 


まずは、リーディングライブ『フィクションとノンフィクションのあいだ』の所感から。


 この物語は、ある家族に起こった一年の事象を扱った物語。
で、物語の原案となっているのは出演者の一人でもあり、このイベントのプロデューサーでもある水原ゆきさんのお兄様の話との事だと。物語の内容だが、明確な始まりと終わりと救いとなる正解とは何なのか?と…結構メッセージ性の強い寓話的な物語だった様に思える。特に、焦点が当たって描写されていたのが人の感情からもたらす距離感だったと思う。


何処から始まっていたか、それはきちんと終わったのか?各々の歪みの根幹はそもそも何だったのか?果たして正解が在るか?いろんな問題がそれぞれに存在していて嫌でもそいつには向き合わなきゃならない。舞台の床に乱雑かつ大量に待ち散らかした大量の紙が人の感情の複雑さという事を視覚に強烈に訴え掛けていたのである。作中ではその紙を鬱積を晴らすかの様に豪快にばら撒いたり、丁寧に片付けようとしたりと……単純にモノを扱うのではなくて人の感情への接し方を模していた様にも感じられる。

その背景や人物を関連付ける要因が、『フィクションとノンフィクションのあいだ』の世界での距離感の様なモノを表現していた様にも思えて来る。そして、これは題にある様にフィクションの世界に収まらず現実の世界にも今起こっている事象でリアリティがある話なのだと。吉岡茉祐さんが演じられた兄がその要素の根幹を担っていた。

演技の良し悪しなんてモノは俺にはさっぱり分からないし…どうしても彼女を中心に観てしまうのだが……素晴らしい演技だったと思う。特に、引き篭もってから刻が経つにつれて徐々に蝕まれ壊れていく過程が生々しく演じられ、怒気がこもった叫びの場面での“圧”がもの凄くて圧倒されてしまったんだよね。単純に怒りをぶちまけるモノじゃなく、自らその道(引き篭もる事)の選択を決意したけども世から隔離されてしまう事への疎外感と恐怖感も込められている様にも感じられた。どこか鬼気迫っていて背筋がぞわっとなる感覚に陥った。


そして、この物語を紐解くのに重要な語が存在している。それは『リフレクション』という語だ。


劇中にて語られるアイドルグループの名称でもあるのだが、反射という意味でも使われている。
想いを伝え返す相互循環が出来るグループだから推している旨を熱弁していて、想いを完全に反射≒想いを返すという意味を込めて『完射』という造語を感謝の意を込めて兄は言うのだけれども……実際の所、登場人物達は上手く想いを反射出来ていないのだ。思い通りにならず屈折してしまったり、距離感によって届かなかったり……けれど、届けようとはしているんだ。あと一歩踏み込めれば、あと数ミリ手を伸ばせたらと。逆に、これ以上踏み込まない、手を差し伸べない方がいいとも捉える事も出来る。

踏み込まなければ人には触れられない。それは真実なのだろう。
だが、その逆もまた然りでもある。どれも正解だし正解でもないあやふやなモノだと。


で…リフレクションには内省という意味もある。
内省を象徴していたのが、楠世蓮さんが演じたもう一人の兄だと思う。
もう一人の兄は実在の人物ではなく、兄の心情の一つ・陽(ポジティブ)な感情、人格。
反目しているのだけれど、拒絶にまでは至っていないだな。兄の中ではこのまま引き篭もりのままじゃいけないという想いが根幹としてまだ残っている。故に陽の感情であるもう一人の兄は在り続けられる。僅かな光ではあるのだろうが……再起する希望の光は兄に差し込んでるのだと彼(もう一人の兄)の存在が証明している様にも感じられる。


その間で苦悩していた象徴的な人物が、山下まみさんが演じられた母親じゃないだろうか。
どちらかと言うと引き篭もっていた息子(兄)への接し方は、真正面に向き合って前を向かせる事と背を押す事を躊躇っていて、ある種の”諦め”の境地に至っていた様に思える。彼女がその境地に至った真相が物語後半で解き明かされるのである。

物語序盤に彼女は風邪を患い、それが長引いて治らないとこぼした。
劇中で彼女が実際に患った病気は明らかになっていないが重病であり、彼女は終盤で亡くなってしまう。私見の域だが……母親は自分の死期をおそらく分かっていたのだろう。家族のすれ違いを口実とし、別居という選択を選んだのは向き合う事から逃げたのではなく、余計な心配をさせまいとした母親としての情がある様にも思えてならない。そして、通院先で兄のバイトの同僚の少女(演:楠田亜衣奈さん)に会った際に語った言葉が印象深い。


『あの子(兄)と一緒に多摩川の土手を散歩して欲しい。』


本来の台詞は失念してしまったが、概ねこのような想いを少女に伝え兄の行く末を託した……。諦めの境地に至ったと前述では書いたが息子に向き合う事は最期まで諦めていなくて、懸命に母として最期の刻まで向き合おうとしていたのではないだろうかと。会う事は叶わなかったが何度も彼を訪ねて来てくれた少女に希望を見い出せたのが母親にとっての救いだったのかもしれない……。


真正面からぶつかり合って思いの丈を余す事無く伝えられればいいのかもしれないが
実際問題そんな簡単で正解というモノじゃない。別の方向や角度で屈折、緩和させながらも想いを何とか伝えようとしてその方法を日々模索して挑んでいく。無駄なんだけれど無駄じゃないある種の自然の理なのだとも捉えられそれが自分の身にもいずれ降りかかって来ないとも限らない他人事ではなく、何時自分が当事者に成り得る事というのを思い知らされた。観終わって率直かつ単純な所感がすんなり出てこない。本当、色々と考えさせられた演目だったと思う。ラストの場面が取り敢えずの着地点なんだけども、それが絶対的な正解じゃなく観る側でいろいろ想像して欲しいというメッセージであるとも思えてきてしまう深くあり重い演目だったと感じた。


演者の皆様の熱演、物語のメッセージ性、フィクションとノンフィクションの狭間のせめぎ合い
全ての要素が織り交ざった面白い内容には本当に感嘆致しました。

 

 

リーディングライブが終わり、お次はトークコーナー。


 事前にTwitterで募った質問から選抜したテーマに沿って繰り広げられる流れ。
ここで印象深かったのは、山下まみさんの話術だった。
場の雰囲気を敏感に察知して話の切り口を開いたり、言葉端というかワードへのレシーブ力の高さ。そしてそこからの展開力……。朗読パートで魅せたシリアスな演技とのギャップには面食らったものであるww

 

そして、ラストの演目となったライブパート。


 吉岡さんと山下さんのユニット『projectM』の楽曲と
水原さん、吉岡さん、山下さん、楠さんによる楽曲『リフレクション』披露。

共にライブ映えする盛り上れて滾れる曲調。自分としては、WUGのSSA以来となったまゆしぃの歌い踊る姿がまた観られた事が本当に嬉しかったんだよね。

 

 
 イベントの題に違わず、いろんな要素をありったけ詰め込んだ濃密なイベントだった。
シリアスな朗読劇でいろいろと考えさせられたインプレッション。トークコーナーで大いに笑ったインプレッション。ライブパートで燃え滾って楽しんだインプレッション。と……様々なインプレッションは感情の大戦争となった。
本当、綺麗さっぱりここまできっちりと打ちのめされると清々しさすら感じるモノなんだと。次の開催があるのなら、また観たいと思わせてくれたイベントでした。

初日の夜公演しか観る事が出来なかったし、あの場で感じられたインプレッションを記憶の片隅からどうにか引きずり出して書き殴った有様なもので、見当違いな部分が多々あるとは思いますが……大目に見て頂けると幸いでございます。


また一つ新しいインプレッションが刻まれた事に感謝しこの所感記事を締めたいと思う。


ここまで読んで下さり本当にありがとうございました!!